思い出の残し方、その必要性
Facebookの投稿をやめてあと一月で1年
去年の私は夏休みの思い出をえっさかほっさか載せていたはずである。
はずであるというのはFacebookの記事をパソコンに落として保存していたが、先日パソコンが全く起動しなくなった。
8年の記録が無くなった。
やっぱり、やっときゃ良かったやん
とは思わない。
Facebook越しに、要はネタになるかならないか考えずに、子供と接する時間はなんて豊かなんだろう。載せてからコメントの数も気にすることはないのだ。
Facebookだけが記録ではない。写真は残っている。赤ちゃんの頃の写真は両実家にもあるはず。
子供の写真を残して喜ぶのは私たち夫婦と両親と本人たちである。他人の子供の写真、正直何十年も保存しますか?笑
それもたまに通知が来るGoogleフォトで、スマホで見て、懐かしいね~で終わり。
赤ちゃん時代以外は紙媒体で残してないから
インターネットが破壊されたらうちの思い出も無くなるね。
大量の写真と動画。
いつ見るんだろう。子育てが終わった頃?
終わる頃には親の介護と自分の仕事でそんな暇はないだろう。
自分が病気したときに暇潰しに見る?
泣きたくなるから、そんなに見ないだろうな~それなら過去を見ず、違う角度で病を捉えたい。
今の80代90代は、自分の子供の頃の写真を持っていても1、2枚、そして結婚式の写真。
自分の子供の写真。面会に子供が持ってきて数枚の孫の写真、ペットの写真
独身だった方の写真は、旅の風景と、甥や姪の写真。飲み会の写真。
写真がいくらあっても見せて語る相手がいなかったら、見ていない。
お年寄りはお年寄りで毎日の自分の体のメンテナンスに気がいって忙しい。はるか昔の自分や子供より、10分後にトイレに無事に行けるか、今日の夕飯は何か、である。
とはいえ、いつか見返す日を待ちながら、撮る。
これも思い出!撮っておかな!
という焦燥感。
足早に去っていく何かをとどめたい。
(自分だけが残っている錯覚を覚えるが、自分も足早に去る風景の中にいるのだ)
自分のエゴとしての行為である。
そんなに思い出が大事ですか。写真がないと自分の思い出もなくなるんですか。
自問している。